9月30日記す

そんな訳で、近いうちに心理士さんとお話しすることになるはずなんだが、結論は「カウンセリングは終了」。
何故かと問われれば、もう話すネタがないし、カウンセリングで得られるものがあるとしても、他人様にご迷惑を掛けずにひっそりと余生を生きたいだけの私には必要ないものであるから。そういうものは、治りたいとかより良く生きたい人のためのものなのだ。おしまい。


おまけ:某所で見掛けた書き込み

辛さがあふれ話さずにいられず話してたが、もともと聞き役でおしゃべりに慣れていないせいか、自分から自分ばかり話していることに嫌悪感を感じてきて、疲れ果ててしまった。結局カウンセリング始める前までの自問自答とそれ程変わらなく感じて、虚しさを感じてしまった。

聞かれれば結構話せるし、聞かれたから話していいと思えて楽なので、気持ちや過去の状況などもっと詳しく聞いてくれるような、質問に答えるだけで詳しい内容を自然に話せるようだと楽だと思うけど、それでは悪化したり、カウンセリングの域ではないのかと思ったり。それをカウンセラに話したが、それはかなり難しいと言われ、今までそういう事を言ってきた人も居ないそうだ。カウンセリングの域でない事はないし、楽なやり方で話したほうがいいと言われたが、他のカウンセラにしても、カウンセラが詳しく聞くのは通常タブーなので、最初に求めるやり方を話して、やってみてどうかって感じだそうだ。


私は「辛さがあふれ」ていた訳でも、聞き役でもないけど、前段の部分は自分で書いたのかと思ってしまった。
いや、違うかな?特に去年は「お風呂を沸かしていて、かき混ぜもせずに湯船の上の方に手を突っ込んで『熱い、熱い』と騒いでいる自分を、底の方から見ている感じ」であった(変な例え)。で、心理士さんは底の冷たさには触れず(気づかず?)に、「熱い」と言っている状態を感情の表出ができていると捉えて肯定的に見ていると。
上辺の熱い部分も、底の方の冷たい部分も、確かに私の一部なんだけど、冷たいところでひっそりしていられれば良いと思っている。熱い部分は生きていく上でどうでもよいことで、他に話すことがないから語っているだけなので、話せば話すほど虚しくなってきてしまうという悪循環なのであった。


それから「カウンセラが詳しく聞くのは通常タブー」の部分。
言語化によってクライアントの気持ちを掘り下げたり、整理するために詳しく聴くのはOKだと思う…というか、それがカウンセリングなのではないのか?
タブーなのは、カウンセラーがクライアントの気持ちや意思を誘導してしまうような聴き方ではないのかと。確かに前者と後者の線引きって難しいけど。