っていうか、親ひとりになったら、子どもは足手まといになって、生活すらできない社会の状況を変えないと、少子化も、児童虐待も、教育崩壊も、なんも解決しないよ。たぶん。

楽しいの?

ここを読んで思ったこと。

誰にだって息抜きは必要だ。それは確かにそう思う。しんどくて煮詰まっていただろうことは想像に難くない。でも、そんな事情があったのなら仕方ないで済まされる問題なのか?一人の命が亡くなってしまってるのに。「今まで大丈夫だった」は「これからも大丈夫」を保証するものじゃない。私には予見可能性がなかったとは思えないんだがなぁ…と言ってしまう私は寛容ではないのだろうか。あ、もしかして起訴しても39条を適用されるような状態だったと判断したのか?ちょっと違う気がするな。仮にそうだとしても甘いと思ってしまうのは厳しいのか?ここを読む限りでは私は冷たい/想像力に欠ける等々言われるのだろうなぁ。)
もちろん母親を断罪すれば一件落着ということだとは思わない。子どもの父親は母親とは他人になっても父親であることは変わらなく、子どもに対して責任を持つべきである。スノボの同行者の常識も疑わざるを得ない。社会資源が充分に用意されていれば避けられたことかもしれない。ただ、仮に充分にあったとしてもそれを利用するかは別問題で、このケースの場合利用しなかったのではないかと思う。と言うのは生きていくには利用できるのものを見つける、使いこなす、(できればしかるべき相手に)「助けて」と言う、その他諸々の知恵が必要で知恵をつけるには教育(not学問)が必要で教育を受けられたかどうかは彼女一人でどうにかできる問題ではないと思うから。


唐突な結論かもしれないが、子どもは親を選べない。だから親に恵まれなかった子どもは本当に不幸で悲しいことだ。それは犠牲になった子どもだけだはなく、この母親にも言えることなのではないかと思う。


まぁ、いいや。寝る。